世界はひとつ

イッツ・ア・スモールワールドが改修を終え、装いも新たにお目見えするという。

私が初めてTDLに行った時、イッツ・ア・スモールワールドは、田んぼと豚小屋しかないところで育った田舎娘が初めて見た世界の姿で、夢の国をギュッと詰め込んだようだと、キラキラした世界にただただ興奮していたものだった。次に乗ったのは大学生になって当時お付き合いしていた彼氏と。こども向けの白々しい演出は、ひねた大学生には退屈なだけだった。

そして、改修前に家族で乗った小さな世界、船旅が終わった後、私は泣いていた。なんで泣いているのかをこどもたちに説明しようとして、さらに号泣してしまった。

未だにうまく説明がつかずにいるけれど、今回の改修のニュースに触れ、また目の奥が熱くなってくるのを感じる。


こどものころに夢見た世界がただの夢物語だと思い知らされた儚さなのか、毎日のニュースに絶望的な気持ちになっても、世界はひとつと無邪気に歌うこどもたちにそれでも希望を見出しているのか。

年をとって涙もろくなった、ただそれだけのことかもしれないが。

息子に彼女がいるという

絶対誰にもいわないで、といわれたので

秘密を持てない性格で、私生活のすべてをさらけ出しネタにすることを処世の術としてきた身としては、悶絶しています。

誰かにいいたい。

あの、息子に、彼女ができたんだって。

電車の中でひっくり返って泣き喚いていた息子が、楽しくなると全裸で走り出していた息子が、下級生にデブとからかわれて涙目になって帰ってきた息子が、キャンプに行くたびに毎回きっちり川に落ちていた息子が、彼女の話を嬉しそうにしている。

息子を知るすべての人に今すぐいってこの気持ちを分かち合いたい。

でも約束したのでいわない。

王様の耳はロバの耳〜と穴に向かって叫ぶが如くにしたためてみました。


隣の芝生はパート2

保育園の送迎時に毎日会うパパがいます。

背が高くてイケメンさん、実は大手企業の正社員でおそらく収入もいいはず(やらしい)

仕事も忙しいだろうに、毎日毎日送り迎えしてくれて、こどもに対してもおっとりと優しい理想的なパパ。

最近では育メンなどと呼ばれ父親の育児参加は当たり前となっていますが、働くお母さんがほとんどの保育園ですら送迎のメイン担当は母親であることが多いのです。

もちろん我が家も私が送迎担当で、仕方がないところではあってもやはりぐずる娘を毎日引きずるように保育園に連れて行くのはなかなかに消耗してしまうものです。

そんな中、送迎を担当してくれるお父さんは羨望の的で、隣の芝生はとっても青く見えていました。

でもひょんなことから、そのパパが病欠で1年以上会社を休んでいることを知りました。

満開の桜の樹の下を、仲良く歩いている父子の後ろ姿。

うらやましい思っていたよその家庭も、そこには他人にはうかがいしれない事情もあるのだと思いしらされた春でした。

隣の芝生は

我が家では毎年桜が咲くとみんなでお弁当持って近くの公園にいきます。

見事な桜並木に囲まれたその公園は、郊外ということもあり、都内の有名どころに比べるとあまり労せず桜の下のベスポジを確保できるなかなかの穴場であります。

唐揚げと卵焼きとウインナーと焼きそばという定番のお弁当を朝から張り切ってこしらえて、桜の下でビールを飲みながら食べる。

お腹がいっぱいになって眠くなり、少しウトウトして、暖かくなってきたとはいえ三月の名残りかまだ少し冷たい風に体を冷やされて、じゃあそろそろ帰ろうかといって家路につく。

毎年毎年なにをするわけでもなく、桜を見てお弁当を食べる。ただそれだけのことですが、今年もまたみんな一緒に桜を見にくることができた幸せをかみしめ、桜の季節を迎えることができなかった友を偲び、そしてまた来年も桜を見にこれるように今年もがんばっていこうと思ったりします。


こうしてみると、自分ってけっこうリア充なんじゃないかと思ってきますが、それも最近の話で。朝がきたらまた1日が始まるのが憂鬱で、1分1秒を息を詰めて過ぎるのを耐えていた時期もありました。離婚を決めてからは、メリーゴーランドとジェットコースターにいっぺんに乗ったような疾走感と高揚感でここまできた気がします。

手に入れたかったものは、あまりにも平凡な幸福。それはなにもかもぶち壊さなければ手に入らなかったものだったのか?

今となっては正解など出せませんが、あの頃の私は隣の芝生が青く見えていたけれど、自分の家だって充分青いことに気づかなかったんだと思います。

最後の晩餐

会社で私はとある大企業の請負で常駐している。

常にお客様の顔色をうかがうのはもう慣れたが、とにかくいろんな人がいろんなことをいってきて疲れる。

家に帰ると上と下がまたそれぞれ、「塾のテストで受かる気がしない」とか「今日の夜は肉が食べたい」とか「アンパンマンがみたい、でもテレビのじゃやだ」とか「頭洗いたくない」とかいろんなことをいってきて疲れる。


「みんな好き放題〜ママだってつかれちゃうよ〜」


と頭の中でびじゅちゅーんの最後の晩餐サンバが鳴り響く。(実際ちょっと口にでちゃう)

そしてサンバを踊り出すとなんとなく、もろもろどうでもよくなって楽しくなってくるのでした。

オーレ!

自分らしさと生きづらさと

40代、人生迷走中。

20代で開業医と結婚した私は、「医師の妻」を意識しない自分らしい自分を演じるのに精一杯でした。せめて「医師の妻」を演じられていたら、もっと楽だったのかもしれません。

でも、求められる役割にも馴染めず、さりとて「自分らしい自分」というのもなんだかよくわからず、そのうち自分がなにをしたいのかもなにをしなければいけないかもよくわからなくなりズブズブと底なし沼のような深みにはまっていったのです。


よくいますよね。

今の生活に満足できなくて、ここではないどこかで輝く自分を夢見て現実を直視できない人。

本当は中高生ぐらいで直視して悩んで打破してこなきゃいけなかったものを、先延ばしにしてきたつけがきたのです。

このように昔から性別、年齢、仕事、趣味、国籍、性格などに基づく役割という箱があるとしたら、自分をどこの箱に入れていいかわからず、寄る辺なさを感じていました。


今だって、辛うじて「お母さん」という箱に入ってはいますが、典型的な「ザおかん」みたいなおばちゃんにもなれず、かといってリソースすべてを美に費やすような美魔女にもなれず、我が道を行く個性派ママにもなれず、キャリア重視のスーパーワーキングマザーにもなれず、常に居心地の悪い思いをしています。


自分探しの旅(中年編)はまだ続くのでしょうか。。。



愛と勇気

今日も家ではアンパンマン

もう卒業かと思ったらまたブームが再燃。

娘よ、ママはアンパンマン以外も見たいよ。


ドキンちゃんは食パンマンが大好きなんだから、そっちサイドになればいいのに、と思う私は乙女心がわからな過ぎか。バタ子さんはさえないルックスだけど、働き者で誰にでも優しいのでモテモテという設定は夢がある。

そして時々、泣ける。

でも「ボケて」のアンパンマンネタは笑える。


私はアンパンが大好きだ。「アンパンダイエット」という、いかにも「痩せたいけど食べたい」とかいって全然痩せない女子が好みそうなダイエット本に影響を受け、1週間分のアンパンを購入するも、1日で食べてしまった、ということからもわかるとおり。

なので、アンパンマンを見ていると、アンパンマンのあんこがずっしりつまった頭かじりつきたくなり、娘とは違うベクトルで熱心に観てたりする。

やなせたかし先生は自身の戦争体験から、お腹を空かせている人を助けるのが本当のヒーローだ、という思いでアンパンマンが生まれたという。

かつて、気持ちが悪くなるまで腹にものを詰め込み、それをすべてトイレに流していたこと、やなせ先生が聞いたらきっと悲しい顔をされるだろう。それを思うと胸が痛む。過去は取り戻せないけど、やなせ先生が望んだ世界が実現することを願う。

ちなみに、アンパンマンマーチが特攻で亡くなった弟さんのことを歌っている、というのはデマのようです。